鑿の音がひびく
わたしは彫られる石だ
天の意志の鑿に彫られる石
生まれかわり 死にかわり
いくたびも心ふるわせ
笑い ののしり 憎み
それらは原石となってわたしのなかにある
(「石を彫る」より)
壺阪輝代が遺伝子のありかを探すように〈遡行〉するのは、見失ったものをさがすことであり、自分の影を求めることでもある。自分も変容するように、影も変容する。
見失ったもの、影絵のようなものをさがすといっても簡単ではない。正体不明のそれらは、自分の手をするりと抜け出し、まるで追いかけっこをしているかのようだ。不安であり、不条理を感じるが、これが生きるということなのだろう。
(井上嘉明・解説より)
壺阪輝代という詩人の魅力は、詩の根源にしっかりと足の親指をつけて詩の風土をときに鋭く、ときに淡淡とうたいきるところにその最大の魅力がある。詩語について固唾をのましてくれるのである。「ふるさとの背中」に風呂焚きをしていた母の背にむかった娘の視線は、〈さびしい島にみえて声をかけられなかった日〉〈母の背はふるさとになりはじめている〉に肉親への深い情愛を読み手に差し出してくれている。
(西岡光秋・解説より)
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