ぼくを恐れる鈴蘭の娘よ
真珠の胸をした年上の娘よ
燃えつきた石炭がらに湿った生卵をうむな
きみは乳房の網で詩人の真実をねらえ
(「ムササビの羽ばたき」より)
一九三九年、北朝鮮生れの彼と北海道生れの筆者はともに戦後を越後で育ち、精神的に同世代だ。二人の私史は微妙に一致し、またどこか行き違う。彼の詩に同族意識と嫌悪を感じながらも読んでしまう自分を、否定できないのはやむをえない。彼の足跡もまた右往左往しているのだ。
(中略)
梶原は安吾文学に傾倒し、研究もある詩人である。すでに世界の状況に批判の姿勢を貫いてきた彼は個人史及び郷土論をフィクション詩で試みた。彼の二重の故郷意識は複眼的で葛藤そのものである。
幼い時に離れた故郷は黄金郷であるらしい。過去の断片にいま生きる自己を重ね合わせながらつづけた黄金郷探検を彼の詩業とみて差し支えないだろう。黄金の羊毛、聖杯、あるいは聖衣を探す旅に似るのか。言ってしまえば、徒労だ。険しい旅がつづくだけで、ついに見つかりはしない。しかし人生は旅、詩は旅。発見のない黄金郷をあぶり出すために彼は新潟をも否定しつづけねばならなかった。
(経田佑介・解説より)
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